確かな技術と経験による表現豊かな器を作陶する増渕篤宥

 増渕さんの器は、普段の生活をちょっと贅沢にさせてくれるもの。幅広い年代に支持されているのは、作品の美しさに加えて温かみがあるからではないでしょうか。“音楽とバイクとお酒” そんなイメージがありますが、実際にはどんな方なのか、人気作家と言われるまでになった経緯など、増渕さんの魅力に迫ります。

バンドとバイクの青春時代

 笠間で生れ育った増渕さん。実家は窯元。笠間で向山窯を設立、製造元でありお店も経営されていて、営業多くの従業員も雇っていました。自身が中学3年生の頃、お姉さんがベースを買ってバンドを組んでいたのをきっかけに、自分もそのベースを弾くようになったといいます。

 「それ以来面白くなって、高校3年間はずっとバンドをやっていましたね。親からは特に焼き物をやれと言われてなかったのもあって、好きなバイクとバンドばっかりの生活でした。」

 卒業後、デザイナー学院に進学したのも、実際には東京でバンドを続けたかったというのが本心のようです。

 「卒業が近づいてもまだバンドをやりたかったんです。でもお金がない。どうやったら親からお金を引き出せるかな、なんて。そうだ、瀬戸の専門学校に行けばお金を出してもらえるかもしれない!と姑息な事を考えたんです。」

 ところが、瀬戸で出会った学生たちは、本当に陶芸を学びたい人たちばかり。そんな熱量の多い学生と共に過ごすうち、仲間が出入りしていた作家さんのところで薪窯の窯焚きや薪割りから始まって、複数の作家さんを掛け持ちでお手伝いをするようになり、穴窯や登り窯、単窯などに携わることができたそうです。そうした陶芸に触れる毎日のおかげで、頭の中は焼き物のことでいっぱいになっていき、増渕さんも本格的に陶芸の道へ進もうと考えるようになりました。奥さんとの出会いがこの瀬戸であったというのも、大きな転機だったのかもしれません。

 2年間の専門学校の後、瀬戸の歴史ある窯に就職することとなります。そこは瀬戸という場所ならではの、料理屋で使用される古典的な器を造ることが主な仕事。その窯元が新規で登り窯を作ることになり、レンガを作って組む築炉から窯焚きまで業務の中で携わっていたそうです。

「このままの作陶で良いのか?」作品と向き合うために笠間から宮崎へ

 瀬戸での修業後、結婚を機に実家である笠間へ戻り、向山窯で仕事をするようになります。ここで7年間働く中で、仕事内容に疑問を持ち始めるようになりました。

 「親父の考え方で進めた場合、今後どうなるんだろう。生き残れるのだろうかと。とにかく考え方の違いでバトルの毎日でした。」

 大量生産を基本とする仕事内容ではあるが、従業員の雇用をしっかりと守っている父。もっと丁寧に造らなければいけないのではないか、と考える増渕さん。お互いに真剣であるがゆえ、ぶつかることが多かったようです。

 「このままでは職場の雰囲気も悪くなる一方ですし。でも、自分の意見を曲げたくなった。迷った結果、向山窯を出ることに決めました。」

 そこで、都城出身の奥さんの実家を間借りする生活に突入しました。とにかく無一文で、どこか働き場所がないかと探す毎日だったとか。瀬戸と向山窯で鍛えられたろくろ技術と大量に製作できる体力と精神力を持っている増渕さんであれば、引く手数多ではないかと想像しますが、実際には全く違うようです。

 「1日に1000個造れるって言っても、需要がなければどこも雇ってくれないんですよ。」

 何とか1軒アルバイトとして雇ってもらうものの、どこの窯も従業員雇用は厳しいのが現状。「1年ほど経った頃に、独立してくれないかと頼まれてしまいまして。」結局1年半バイトをし、焼き物に必要な道具を最低限購入、とりあえずの独立という形をとります。

「でも、取引先なんて全く見つからないし。34~5歳くらいですかね。子供もいるのに人生2度目の無一文。本当に途方に暮れていました。」

いざ東京へ!取引先を求めて

 東京での取引があれば仕事が続くかもしれない。そう考え、営業へ出ることに決めた増渕さん。これが、認められるきっかけとなりました。

 取引先が決まったのは、『桃居』の店主、広瀬さんのおかげだといいます。

 器好きなら知らない人はいないであろう、西麻布『桃居』がオープンしたのは80年代。当初、器を購入するとなると、安い量産物か5客セットの高級品のどちらかでした。その中間部分の器を取り扱った店舗というのは、ここ『桃居』が先駆け的存在でしょう。

 その10年後、90年代後半に女性店主である島田さんが青山で『うつわ楓』を開店させ、柔らかい雰囲気と器への愛情がたっぷりと感じられる店舗で話題となります。島田さんが、まさにその頃、姉妹店として「shizen」をオープンさせる予定があり「新しい作家さんを探してるかもしれない。」と、広瀬さんが早速電話を繋いでくれたのだといいます。

 その足で「うつわ楓」へ向かった増渕さんですが、「当時はシンプルな白かシンプルな黒というデザインが流行りで、白黒混在しているのは無かったんです。」というように、なかなか受け入れて貰えなかったようです。

 増渕さんが初期から作陶しているトクサシリーズは、錆化粧の上に白化粧がある独特のもの。茶色がかった深みのある黒に貫入の入った白のラインは、温かみとモダンさが感じられるデザインです。今では彼を代表する作品ではありますが、残念ながら良いイメージを持って貰えなかったのです。それでも「粘りに粘ってカップ&ソーサーを5客扱ってくれることになったんです。」と、これが初の取引となりました。

 「ただ送っただけじゃ忘れられると思って、納品は実際に持って行きました。納品しながら他店舗への営業というのを繰り返したんです。」

 そのうち、「shizen」(現在はうつわ楓姉妹店ではなく独立店)の店主である刀根さんに依頼されて作陶したお茶漬け碗がCMに起用されたこともあり大ヒット。収入のほとんどを交通費にあて生活費は奥さんがパートで支えたという数年間を過ごしたといいますが、そのおかげで徐々に取扱店も増え、今では人気作家と言っても過言ではないでしょう。

小林市で新しく向山窯櫻越工房を構え再出発

 2010年に小林市に移転し、農機具小屋だったという場所を作業場に改築し、作陶を続けている増渕さん。

 作品の幅は広がり、巧妙でなめらかな曲線や細かい図柄が目立ちます。象嵌の技法を用い、自身で製作した彫刻刀を使い分け、丁寧に彫られた器を見るとため息が漏れるほど。吸い込まれそうな碧色の青釉、落ち着いた褐釉、やわらかく上品なキナリ釉など釉薬の美しさにも目を見張ります。

 醤油差しやピッチャーなど水切れの良さはピカイチですが、実は注ぐ必要のない片口鉢ですらシャキッと水が切れるのは、完璧主義の増渕さんらしさなのかもしれません。「仕事以外はだらしないんですけどね。」と笑っていましたが、ひとつひとつ手作業でありながら重ねてストックできる仕上がりはまさに完璧。

 「彫り」の技術を駆使した器は、ガラス作家の江波富士子さんの作品に出会ってからだといいます。

 「トクサの後いくつかの変化があり、飾りの入った器も製作していました。でもそれは、なんとなくシンプルにしようと考えていたんです。でも、江波さんの器を見て驚きました。陶器は触って作業ができますが、ガラスは手で触りながらの作業が出来ません。それなのにあの細かさ。自分もちゃんとしなきゃ!って、そこから始まったんです。」

 だからこそ、型も使わず緻密で細かい作業に没頭したのだと納得。

 ただ、美術品としても価値のある器でありながら、手に入れやすい価格帯にしているのは不思議でなりません。

「作家というより、入れ物屋ですから。高価な値段じゃ使ってもらえないですからね。」

 と増渕さん。

 「彫る作業は確かに時間がかかります。でもそれは生地を造る方でカバーするんです。例えば、他の人が10個しか造れないところを自分は100個造ればいい。その時間を彫る時間に当てれば価格も抑えられますから。」

 美しい見た目と使い勝手の良さで、幅広い家庭で愛されている器。まさに価格帯を抑えられているのは、瀬戸や笠間で鍛え上げられたスピードと正確さ、熟練の技術と経験の賜物なのです。

 宮崎県の中でも違う景色が広がる小林市。霧島山の風が影響しているのでしょうか、平均気温が5度ほど低く、夏でも過ごしやすいといいます。

 工房からも霧島連峰が眺められます。

「茨城で育ったこともあり、ふたつのとんがった筑波山をずっと見ていて。引っ越し先は偶然でしたが、霧島山をこんな間近で眺められるなんて、やっぱり山があるのは良かったなって思っています。」

 この工房で家族と共に過ごし、作陶し、これからも様々な作品を生み出していくのでしょう。今後も楽しみであり、もっと多くの方に手に取って欲しい、この美しい工芸品のような器が並ぶ食卓が増えればと願っています。